名所案内

長崎の風景

港の形(上空から見ると鶴が羽を広げたような形に見える)から「鶴の港」とも呼ばれる。江戸時代には鎖国中にあって江戸幕府が西洋・中国向けに唯一公認した国際貿易港として栄え、明治以降は上海への航路の発地として貿易や旅客の行き来が盛んになった。現在では観光地長崎の玄関口として、また離島の多い長崎県の交通の要衝であり港中心部の再開発も進んでいる。

長崎孔子廟大成殿

日本にも、各地に孔子廟がある。多くは儒学の学校に付随して建てられる。有名なものでは東京都の湯島聖堂があり、江戸時代から設けられた。「昌平坂学問所」に付随して設置された。もともと朱子学の林羅山が上野忍が岡に先聖殿を築いたものを、江戸幕府が日本における儒教の学校として、湯島(御茶ノ水)に移築し、開き、林家の学問所としても発展した。また、最も見応えのあるものは、長崎の「孔子廟」である。江戸時代以降、外国貿易の地と定められ、唐人屋敷があった長崎に、明治26年(1893年)、清国政府と在日華人が協力して、中国の総本山並に伝統美あふれた「孔子廟」が作られた。

平和記念像

平和祈念像(へいわきねんぞう)は、長崎県長崎市松山町にある平和公園の北端に建てられた像。北村西望(きたむら せいぼう)によって造られた。神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は原爆の恐怖を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。被爆10周年にあたる1955年8月8日に完成。像の高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さは約30トンあり、鉄骨を芯にして、青銅製のパーツをステンレスのボルトで縫ってある。右手の人差し指には避雷針が設置されている

如己堂

如己堂(にょこどう)は、長崎県長崎市にある、永井隆 (医学博士)が白血病の療養をしていた建物である。長崎の被爆から約3年後の1948年(昭和23年)3月、長崎市浦上の人達やカトリック教会の協力により建てられた。この二畳一間の部屋で、永井隆の著名な作品の数々が生まれた。現在は、隣接地に長崎市永井隆記念館が建てられている。

長崎新地中華街

南北250メートルの十字路には長崎市の姉妹都市である福建省福州市の協力によって石畳が敷かれ、中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねる。中華街の四方には中華門が立てられ、町はアーチ型のイルミネーションで飾られる。毎年春節時には湊公園でランタンフェスティバルが開催される。表通りは人通りが多く華やかで比較的規模の大きな店が多いが、裏町(うらちょう)と呼ばれる路地には入り口も目立たず人もほとんど通らず店舗も小規模なものをわずかな数だけ設けるスペースしかない。

オランダ坂

オランダ坂(オランダざか)は、長崎県長崎市東山手町にある大浦海岸通電停側ら
石橋電停側の誠孝院(じょうこういん)前の坂までの切り通し、活水坂、英国聖公会会堂跡前の坂一帯の総称である。江戸時代から明治時代にかけては、東洋人以外の人がよく通行していた。当時はその人々をオランダさんと呼んでいたのでこの名前がある。特に、活水女子大学入口にある坂がよく知られている。また、オランダ坂は日本中にもいくつかあり、例として長崎市丸山町には丸山オランダ坂がある。長崎出身のデュオ「フリーウェイハイハイ」のシングル「雨オトコ晴オンナ~オランダ坂で君を待って」でも歌詞に入れられている。

シーボルト像

ご存知幕末に蘭学を広めたオランダ人シーボルトの銅像この像はオランダライデン大学とアルフレットエルオン財団の手により日蘭友好を、目的に朝日新聞の助力の本昭和63年6月18日建立された。

像があるあかつき公園一帯は、幕末から明治中期まで外国人居留地であったため多くの海外から伝えられた記念碑が幾つもある。

坂本龍馬像

作者は長崎県西彼杵郡高島町(現長崎市)出身の彫刻家、山崎和國。
「龍馬の銅像建つうで会(現長崎龍馬会)」の活動により、1989年5月21日に建てられた(「建つうで」とは長崎弁で「建てよう」の意)。 制作期間は約7ヶ月。本銅像は当初、かつて日本有数の賑わいを見せた花街、丸山に位置する丸山公園に設置する予定だったが、自治会の反対に遭い計画は頓挫、建立予定日は延期された。その後、長崎市と亀山社中地域の自治会の協力により、長崎市中心部を一望できる風頭公園に設置された。

グラバー邸

貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築。1863年(文久3年)の建築。裏手には馬小屋や貯蔵庫なども残っている。三菱重工業 長崎造船所を見下ろす位置にあったため1939年(昭和14年)に戦艦武蔵の建造を秘匿する目的で買収され所有が三菱重工業へと移った。1957年(昭和32年)には同造船所の創業100周年を記念して長崎市へ寄贈された。1961年(昭和36年)6月7日、主屋・付属屋が国の重要文化財に指定。

シーボルトの木

学名:Rhamnus utilis
原産地:中国
花期:春

幕末に日本を訪れ,後に「フロラ・ヤポニカ」を著したことでも有名なオランダ人医師,シーボルトの長崎市出島の自宅の庭に植えられていた落葉小高木で,牧野富太郎が 1912 年に「植物学雑誌」に学名Rhamnus sieboldianaを発表しました。1969 年に御江久夫が,中国に産するRhamnus utilisと同じものであると発表して,現在の学名になりました。和名は長崎での現地名です。
春に淡黄緑色の 5 弁の花を束生します。果実は球形で,黒く熟します。

浦上天主堂

浦上は長崎の北に位置する農村であり、キリスト教の日本伝来よりカトリック信者の多い土地であった。そのため江戸時代における異教禁制による隠れキリシタンの摘発も数回なされた土地であった。鎖国解消に伴う長崎開港で、欧米人が長崎港の南の東山手・南山手に居住区を作り、その一角に1864年(元治元年)に大浦天主堂が造られた。それを知った浦上の住民は大浦に赴任した司祭(神父)ベルナール・プティジャンに密会して信仰を告白し、それがきっかけとなって社会へのカトリック信仰の顕在化が行われた。しかし明治政府も当初は江戸幕府と同様にキリスト教禁制を維持し、欧米政府からの反対を押し切って弾圧に踏み切り(浦上四番崩れ)、浦上の住民は各地に配流された。禁制解消後、半分近くまで減った信者が浦上の地へ戻り、1879年(明治12年)に小聖堂を築いたのが浦上教会の発端であった。その後、大浦天主堂から専任の神父が来て、翌年に浦上村の庄屋の跡地を買い取り、現在の地に移転した。

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